前回、波の譬えをご紹介致しましたが、この例えは、話を分かり易くする為のものでしたが、仏教的には大きな誤解を招きかねない要素を含んでいました。内容をもう一度振り返って見ましょう。海の中の一つの「波」が、自らを波である、と自覚するようになったとします。自分が一つの波だと自覚する事で、自分以外の数多くの他の波をライバルであると見なすようになり、彼らとの生存競争に明け暮れる事になります。つまり、自分とそれ以外の他者とが対立闘争する自他対立の妄想が生じる訳です。この妄想はあらゆる苦の原因となります。しかし、自分が単なる一つの波ではなく、海全体であることに気づいたときに、それまでの自他対立の妄想は消え去り、海全体との一体感を実感し、あらゆる妄想と、苦から、解き放たれて永遠の安らぎ、つまり悟りの世界に安住する事が出来るというお話でした。ただし、誤解を招く可能性があるのは、最終的に到達した本当の自分は大海そのものであった、という「大海」に、あったのです。理由は、比喩とは言え、実際の大海は実体のあるものであり、認識の対象となるものです。
ところが、十二因縁の所でもご説明致しましたように、「感覚」「意識」などの現象はすべて固有の存在を欠いており、具体的な実体に基づいているわけではありません。仏教では、全てのものは妄想の産物であり、この妄想というのは何らかの実際に存在するものを誤認する訳ではなく、妄想が、さらなる妄想を生み出すことで永続すると考えられています。仏教では、物事の本質を悟り、根源的な無知をなくすと、その後の全ての妄想は完全に消滅すると考えられています。
ただし、すべての妄想が消滅した後に残る「認識主観」は、当然ながら既存のいかなる存在とも同一視できないものです。これは仏教の教えの重要な前提です。したがって、完全なる中道の境地に到達した「認識主観」を、認識対象である大海や、世界や、宇宙や、宇宙的生命と同一視することは、仏教の大前提に根本的に反することなのです。
つまり、認識主観が、どのような認識対象とも自己同一視せずに、超然と出来ている状態こそが、中道の境地と呼ばれるので、なんらかの具体的な存在と、自己同一視した時点で、それはもはや、中道の境地であるとは、言えないからです。だからこそ、完全なる中道の境地に達した仏陀を、他のどの様な具体的存在とも同一視する事は出来ない訳です。
しかし、やがて、全ての人が仏に成る可能性を持っている説の根拠として、全ての人が仏そのものの現れであるのに、それに気づいていないだけであるという説が登場するようになります。つまり、本来は仏になる可能性を意味する概念が、仏そのものが宇宙の本体としての実体を持つ存在であると考えられる様になり、人々も含め、全ての存在はその表れであるという考え方まで登場するようになりました。
生きとし生けるものを仏と同等に尊重することと、全ての存在を (文字通り) 仏の現れとみなすことは根本的に違います。
生きとし生けるものを、仏と同等に敬うことは極めて重要であり、菩薩にとって不可欠な視点ですが、生きとし生けるものを、文字どおり仏の現れであると考えることは、妄想の世界全体が仏によって創造されたものだと言っているのも同然です。
そもそも、仏は創造主ではありません。仏は、妄想の世界を超越した存在でありながら、如来として、苦悩する衆生が、目覚め、妄想の世界から抜け出すのを、助け続けている存在です。
仏教の世界観では、この妄想世界を創造する創造主や、宇宙の大生命など存在しないのです。なぜなら、妄想の世界は、無数に共存する可能性の中から、私たち自身の意識が選択し、確定した世界だからです。
また、仏を生命そのものになぞらえることは、生命と、仏の本質を混同することにもなります。生命の本質は新陳代謝にあり、それは固体や集団としての「種」の存続のために、他の存在を利用することも含みます。人間の利己主義の源泉は、生命に内在する特質のように思われます。何故なら、生命は自己の生存を維持する為には他者を犠牲にせざるを得ないという宿命を抱えているからです。いくら他者の幸せを願っても、その命を奪ってでも、自分だけ生き残ろうとするのが生命の本質だからです。
その様な、生命としての宿命的な利己性は、究極的には、自他分離の妄想にその源泉がある訳ですが、人間として、他者の幸せを優先する努力を続ける事で、生命としての、そして、より根源的には自他分離による利己主義の影響力を、少しずつ弱めていくことができるのです。
そして、最終的には、その様な、自己保存の為の妄想を超越することで、人は全ての存在との一体感に到達し、仏の悟りに至ることができる訳です。
前述しましたように、仏は、私たちを闘争と苦しみの世界から、争いや悲しみのない世界へと導いてくれる存在です。
したがって、仏をこの世界を創造する宇宙生命そのものになぞらえることは、消防士を、放火魔になぞらえるようなものなのです。
日本の天才童話作家で法華経の信奉者でもあった、宮沢賢治は、生命活動の無慈悲な本質を露わにし、それを激烈に提示することで、仏教思想の本質を見事にえがきました。
その中に『夜鷹の星』という短編があります。主人公の夜鷹は、他者を慈しむ心を持ちながら、生きるためには、他者を殺して食べなければならない。この根本的な矛盾に心を痛めた彼は、やがて他者を食べることをやめ、生物としての存在の仕方を辞める為に、遠い空へと飛んで行って、夜空の星となるという物語です。
ある意味、宮沢賢治は、仏教の根本精神を真に理解した数少ない仏教徒の一人であった、と思われます。
既に述べました様に、世界は、一人一人の心が選択しているという仏教の大前提を考えれば、この世のすべてが仏の現れである、という考え方は、全くもって、仏教的な発想ではないと言っても過言ではないでしょう。
しかも、私たち一人一人が認識できる世界の選択肢は無数にあり、その瞬間その瞬間で、一人一人が自分の精神状態や過去の行動の記憶に基づいて、無数の可能性の中から一つの世界を選択しています。したがって、すべての人間が同じ未来や過去を共有しているわけではありません。
利己的で敵対的な人が選ぶ世界は、対立と争いの世界となるでしょうし、人類が滅亡する可能性すらあるかもしれません。逆に、一貫して他者の幸福を願い、その為に行動する人々が選ぶ世界は、人々が互いに悟りに向かって協力し合う、平和で調和のとれた世界になるかもしれません。
法華経の第十六章には、「衆生には、世界の終わりの時が来て、全てが焼き尽くされると見えている時でも、私の見ているこの世界は、安穏で天の神々や人間達に満たされている」といった表現がありますが、それは、たとえ多くの人が、この世の終わりが来て、全てが燃え尽きる、と思ったとしても、仏が見ている世界は平和であり続け、心の清らかな生きとし生けるもので満たされているという意味です。
これは、仏の居る世界がこの世とは別の世界にあるという意味ではなく、妄想に囚われた人々が見る世界と、仏のような心を持つ人々が見る世界は、重ね合わさった並行世界であることを、示唆しているものと思われます。
つまり、仏が見るような平和な世界と、大火に焼かれて人類が滅びる様な世界は、それぞれ可能性の一つとして選択可能な世界であり、実際に各自の心がそれを選択して確定するまでは、共存する平行世界であると言う事です。
それゆえ、どの様な世界であれ、それは仏が作り出した世界では決して無く、我々自身の心が選択した世界である事を忘れてはならないと思います。
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