仏教とは何か? 応用編 9 苦の起源と菩薩行の必然性
仏教とは何か? 応用編 8 仏陀は宇宙の創造主でもなければ、宇宙の大生命でもない
前回、波の譬えをご紹介致しましたが、この例えは、話を分かり易くする為のものでしたが、仏教的には大きな誤解を招きかねない要素を含んでいました。内容をもう一度振り返って見ましょう。海の中の一つの「波」が、自らを波である、と自覚するようになったとします。自分が一つの波だと自覚する事で、自分以外の数多くの他の波をライバルであると見なすようになり、彼らとの生存競争に明け暮れる事になります。つまり、自分とそれ以外の他者とが対立闘争する自他対立の妄想が生じる訳です。この妄想はあらゆる苦の原因となります。しかし、自分が単なる一つの波ではなく、海全体であることに気づいたときに、それまでの自他対立の妄想は消え去り、海全体との一体感を実感し、あらゆる妄想と、苦から、解き放たれて永遠の安らぎ、つまり悟りの世界に安住する事が出来るというお話でした。ただし、誤解を招く可能性があるのは、最終的に到達した本当の自分は大海そのものであった、という「大海」に、あったのです。理由は、比喩とは言え、実際の大海は実体のあるものであり、認識の対象となるものです。
ところが、十二因縁の所でもご説明致しましたように、「感覚」「意識」などの現象はすべて固有の存在を欠いており、具体的な実体に基づいているわけではありません。仏教では、全てのものは妄想の産物であり、この妄想というのは何らかの実際に存在するものを誤認する訳ではなく、妄想が、さらなる妄想を生み出すことで永続すると考えられています。仏教では、物事の本質を悟り、根源的な無知をなくすと、その後の全ての妄想は完全に消滅すると考えられています。
ただし、すべての妄想が消滅した後に残る「認識主観」は、当然ながら既存のいかなる存在とも同一視できないものです。これは仏教の教えの重要な前提です。したがって、完全なる中道の境地に到達した「認識主観」を、認識対象である大海や、世界や、宇宙や、宇宙的生命と同一視することは、仏教の大前提に根本的に反することなのです。
つまり、認識主観が、どのような認識対象とも自己同一視せずに、超然と出来ている状態こそが、中道の境地と呼ばれるので、なんらかの具体的な存在と、自己同一視した時点で、それはもはや、中道の境地であるとは、言えないからです。だからこそ、完全なる中道の境地に達した仏陀を、他のどの様な具体的存在とも同一視する事は出来ない訳です。
しかし、やがて、全ての人が仏に成る可能性を持っている説の根拠として、全ての人が仏そのものの現れであるのに、それに気づいていないだけであるという説が登場するようになります。つまり、本来は仏になる可能性を意味する概念が、仏そのものが宇宙の本体としての実体を持つ存在であると考えられる様になり、人々も含め、全ての存在はその表れであるという考え方まで登場するようになりました。
生きとし生けるものを仏と同等に尊重することと、全ての存在を (文字通り) 仏の現れとみなすことは根本的に違います。
生きとし生けるものを、仏と同等に敬うことは極めて重要であり、菩薩にとって不可欠な視点ですが、生きとし生けるものを、文字どおり仏の現れであると考えることは、妄想の世界全体が仏によって創造されたものだと言っているのも同然です。
そもそも、仏は創造主ではありません。仏は、妄想の世界を超越した存在でありながら、如来として、苦悩する衆生が、目覚め、妄想の世界から抜け出すのを、助け続けている存在です。
仏教の世界観では、この妄想世界を創造する創造主や、宇宙の大生命など存在しないのです。なぜなら、妄想の世界は、無数に共存する可能性の中から、私たち自身の意識が選択し、確定した世界だからです。
また、仏を生命そのものになぞらえることは、生命と、仏の本質を混同することにもなります。生命の本質は新陳代謝にあり、それは固体や集団としての「種」の存続のために、他の存在を利用することも含みます。人間の利己主義の源泉は、生命に内在する特質のように思われます。何故なら、生命は自己の生存を維持する為には他者を犠牲にせざるを得ないという宿命を抱えているからです。いくら他者の幸せを願っても、その命を奪ってでも、自分だけ生き残ろうとするのが生命の本質だからです。
その様な、生命としての宿命的な利己性は、究極的には、自他分離の妄想にその源泉がある訳ですが、人間として、他者の幸せを優先する努力を続ける事で、生命としての、そして、より根源的には自他分離による利己主義の影響力を、少しずつ弱めていくことができるのです。
そして、最終的には、その様な、自己保存の為の妄想を超越することで、人は全ての存在との一体感に到達し、仏の悟りに至ることができる訳です。
前述しましたように、仏は、私たちを闘争と苦しみの世界から、争いや悲しみのない世界へと導いてくれる存在です。
したがって、仏をこの世界を創造する宇宙生命そのものになぞらえることは、消防士を、放火魔になぞらえるようなものなのです。
日本の天才童話作家で法華経の信奉者でもあった、宮沢賢治は、生命活動の無慈悲な本質を露わにし、それを激烈に提示することで、仏教思想の本質を見事に描きました。
その中に『夜鷹の星』という短編があります。主人公の夜鷹は、他者を慈しむ心を持ちながら、生きるためには、他者を殺して食べなければならない。この根本的な矛盾に心を痛めた彼は、やがて他者を食べることをやめ、生物としての存在の仕方を辞める為に、遠い空へと飛んで行って、夜空の星となるという物語です。
ある意味、宮沢賢治は、仏教の根本精神を真に理解した数少ない仏教徒の一人であった、と思われます。
既に述べました様に、世界は、一人一人の心が選択しているという仏教の大前提を考えれば、この世のすべてが仏の現れである、という考え方は、全くもって、仏教的な発想ではないと言っても過言ではないでしょう。
しかも、私たち一人一人が認識できる世界の選択肢は無数にあり、その瞬間その瞬間で、一人一人が自分の精神状態や過去の行動の記憶に基づいて、無数の可能性の中から一つの世界を選択しています。したがって、すべての人間が同じ未来や過去を共有しているわけではありません。
利己的で敵対的な人が選ぶ世界は、対立と争いの世界となるでしょうし、人類が滅亡する可能性すらあるかもしれません。逆に、一貫して他者の幸福を願い、その為に行動する人々が選ぶ世界は、人々が互いに悟りに向かって協力し合う、平和で調和のとれた世界になるかもしれません。
法華経の第十六章には、「衆生には、世界の終わりの時が来て、全てが焼き尽くされると見えている時でも、私の見ているこの世界は、安穏で天の神々や人間達に満たされている」といった表現がありますが、それは、たとえ多くの人が、この世の終わりが来て、全てが燃え尽きる、と思ったとしても、仏が見ている世界は平和であり続け、心の清らかな生きとし生けるもので満たされているという意味です。
これは、仏の居る世界がこの世とは別の世界にあるという意味ではなく、妄想に囚われた人々が見る世界と、仏のような心を持つ人々が見る世界は、重ね合わさった並行世界であることを、示唆しているものと思われます。
つまり、仏が見るような平和な世界と、大火に焼かれて人類が滅びる様な世界は、それぞれ可能性の一つとして選択可能な世界であり、実際に各自の心がそれを選択して確定するまでは、共存する平行世界であると言う事です。
それゆえ、どの様な世界であれ、それは仏が作り出した世界では決して無く、我々自身の心が選択した世界である事を忘れてはならないと思います。
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これまで、初期仏教以来の釈尊の教えを中心に述べてきましたが、大乗仏教の隆盛にともない、特に般若経典類の中で「空」という言葉が頻繁に使われるようになりました。
「空」とは、基本的にこの世のすべてのものは、原因と条件との関係性においてのみ存在するという意味です。それ自体で独立した本質や実体を持つものはなく、全ては人々の心の中に存在するさまざまな関係性が、概念化され、分類され、名称がつけられたものでしかない、とする考え方です。
したがって、これらの概念に固定的な意味を付与することが、それらに固有の本質や不変の同一性があることを意味するわけでは決して無いとされます。
例えば、椅子を例にとってみましょう。よく観察してみると、そこには「スポンジ」「 布」「鉄 」「プラスチック」の組み合わせがあるだけです。私達はこれらの素材の組み合わせに「椅子」という名称を便宜的につけていますが、椅子という概念は私たちの頭の中にしか存在しません。
その証拠に「椅子」という概念を持っていない人がそれを見て「テーブル」として使うかもしれません。
したがって、様々な素材が構成する関係性は基本的に「空」であり、それにどのような意味を持たせようとも、それは主観的なものでしかありません。「スポンジ」「布」「鉄」「プラスチック」の組み合わせを「椅子」と考えるか、「テーブル」と考えるか、場合によっては「乗ったり、遊んだりするおもちゃ」と考えるかは、結局のところ個人の解釈次第なのです。
しかし、社会の大多数が共有する意味や概念を受け入れるほうが、実際の生活では都合が良いことが多いわけですが、ある概念が多くの人々によって共有されているからといって、それが現実における不変の本質を表しているとは限らないわけです。
しかし、私たちは子供の頃から、言語を通じてこれらの共有された意味や概念を教え込まれてきました。そのため、私たちはしばしば、これらの概念自体が、それらに対応する対象の「本質」や「不変の同一性」を表していると誤解してしまうのです。いわば、「固定概念 」を刷り込まれているわけです。その結果、私たちはしばしば無数の 「固定概念 」に囚われてしまいますが、本質的に暫定的でしかない概念に囚われるのは実は馬鹿げたことなのです。
この 「空」の視点は、物事には固有不変の本質がないことを強調し、そもそも、ものには固定的実体があるという見方を否定し、あらゆる思い込みから人々を解放する事が意図されているのです。
この視点は、釈尊の入滅後、3世紀~4世紀頃に、初期の大乗経典である般若経典において特に強調されるようになり、さらに、南インドの学者である龍樹によって、紀元2世紀頃に精緻化されました。
しかし、この視点は釈尊の教えから一方的に逸脱した訳では全くありません。それどころか、釈尊は 「中道」と「無常」と「無我」を説かれました。そして「無常」は、この世のあらゆるものは常に変化しており、恒久的な同一性を保持するものはないと教えます。「無我」は、無常を補完するもので、恒久的な同一性を保持するものはないため、固有の「我」などというものは、存在しないとするものです。
身近な例で説明すると、1913年から存在する野球チーム「ニューヨーク・ヤンキース」の例を考えてみましょう。そもそも、何が「ニューヨーク・ヤンキース」を構成しているのかを詳しく調べてみると、固定した存在や不変の本質などないことがわかります。ベーブ・ルースの時代のチームと現在のチームは、選手、監督、コーチともに大きく異なっています。不変の同一性を持つ「ニューヨーク・ヤンキース」など存在しないのです。いつまでも続く可能性があるのは、唯一その「名前」だけです。つまり、「ニューヨーク・ヤンキース」とは、最初から特定の野球選手達の集まりに恣意的につけられた名前に過ぎなかったのかもしれません。
従って、永続するのは単に「名前」や「概念」に過ぎず、それは人々の心の中にのみ存在し、実際の選手は絶えず変化しているという意味で、無常であり、無我であると言えます。
同様に、松井秀喜のような選手個人も、(彼の肉体は)約60兆個の細胞から構成されており、約2年半で完全に入れ替わります。遺伝情報であるDNAこそが肉体の設計図であり、(彼の同一性を)維持していると思う人もいるかもしれませんが、実際には環境の変化によってDNAの現れ方は大きく変化するとも言われています。したがって、少なくとも肉体的には、松井秀喜に不変の本質など無いのかもしれません。人格的な面でも、起業家として成功するかもしれませんし、逆にホームレスになるかもしれませんので、彼の本質は不変であるとは言えません。もし松井秀喜に不変の本質があるとしたら、彼は良くも悪くも変わることはできないでしょう。固定された本質や同一性などないからこそ、人間は変われるのです。
このように、「無常」と「無我」の概念は、当初、自分自身や関連する現象に対する固定概念や執着をなくすという実践的な目的で説かれました。しかし、釈尊が亡くなってから2世紀~3世紀後、釈尊の教えを綿密に分析・分類した弟子たちのグループの中で、新たな視点が生まれました。基本的には「無我」の立場を維持しながらも、人間が認識する対象のいくつかには何らかの実体や本質が内在しているという考え方が、後に多くのアビダルマ文献を残した「説一切有部」と呼ばれる学派を中心に表面化し始めたのです。
その後、このような視点に対する批判が起こりました。これらの批判者達は、実体論的な世界観は、仏陀の無我の教えと矛盾する、と反論したのです。そして、このような実体論的な考え方は、阿羅漢を究極の目標と考える人々の間で発展したため、批判は実体論的な考え方だけでなく、阿羅漢を目指す修行方法そのものや、多くの苦悩する衆生を放っておいて、自分だけ阿羅漢となり、涅槃に入ろうとする、無慈悲な態度にも向けられました。
このような動きは、般若経典類の編纂につながりました。般若経典類は「空」をテーマとし、実体論的な世界観は、仏陀の「無我」の教えに反するとして、否定しました。また、これらの批判者たちは、個人の悟りである阿羅漢に到達することだけに専念するのは、利己的なアプローチであると批判し、その様な修行方法に代わるものとして、すべての衆生が共に、菩薩行を行じて、共に仏に至る道を歩む修行を提唱しました。この運動は後に大乗仏教として発展する事になったのです。
そして、紀元2世紀頃、「龍樹」が現れ、般若経典類に説かれている「空」の観点をさらに精緻化しました。彼は実体論的な見解を批判し、「空」の概念を、固有の固定した実体や同一性を持つものは存在しない、ことを意味するとして再定義し、それによって釈尊の「無常」や「無我」、そして何よりも「中道」に対する姿勢を再確認したのです。
仏教とは何か? 応用編 4-2 悟りの境地は光の境地
仏教とは何か? 応用編 4-1 自らの無力を徹底的に自覚して解脱する道
これまで見て来ましたように、阿羅漢の道も菩薩の道も、相当な覚悟と信念が必要で、誰にでも歩める道とは言い難いものでした。
ちょうどその頃、時代が進むにつれ、仏教のみならず世界的な宗教的潮流の中で、人々を救おうという大いなる意図を持つ存在に、全てを委ねる信仰が盛んになりました。
この信仰にはさまざまな形があり、一様には語れませんが、基本的な態度は、自分の無力さを徹底的に自覚し、自分で何とかできるという傲慢さを一切捨て、ただひたすら超越的な存在の意志に身を委ね、その超越者の意志が自分の中で働くように委ねることです。そうすることで、最後には、「自分」という妄想とそれに対する執着を忘れた状態に到達することが期待されているようです。
学術的な証明はまだされていませんが、西暦紀元前後のこうした宗教的な流れが、キリスト教の誕生に影響を与え、インドのバクティ・ヨーガの源流となり、仏教にも影響を与えて、浄土教の経典の編纂につながった可能性は十分にあると思われます。
実際、浄土教典は紀元前後に編纂されたと考えられています。浄土教典は、後に阿弥陀仏となる法蔵菩薩の誓願がその前提となっています。
法蔵菩薩は48の誓願を立てましたが、その中でも第18番目の誓願は伝統的に特に重要視されてきました。
それは、要約すると、「私が仏になる時、この宇宙の誰であっても、私の誓いを信じ、私の世界に生まれ変わることを望み、私の仏名として『阿弥陀如来』の名を唱え続けたとしても、それでも、もし私の世界に生まれることができなければ、私も仏としての究極の境地に入ることはない」というものです。
仏陀と阿羅漢の違いは何か。
基本的には、すべての衆生が成仏するまでは自分自身も成仏しないということが菩薩としての究極の境地ですが、前の章でご説明した、阿羅漢と仏陀の違いは、ここにあるのかもしれません。つまり、仏陀は最後の最後まで完全な涅槃には入らないということが示唆されているのです。
如来とは何か
前の章の菩薩の所でもご説明致しましたように、自己も他者も同じ妄想の中で苦しんでいるのであれば、自分だけ優先する理由はなく、自己と他者の両方がこの妄想から解脱するために努力するのは当然のことであると言えます。
つまり、自分だけを優先するという考え方は、自分という概念に囚われている証拠なのかもしれません。真の菩薩とは、前述の法蔵菩薩のように、すべての生きとし生けるものが成仏するまでは自分も成仏しないと誓う者のことです。
このような菩薩としての生き方を最後まで続け、自己の視点にも他者の視点にも囚われることなく、完全な中道の境地に達することが仏陀の境地であり、如来とも呼ばれる境地なのです。
更に、如来とは「真実の世界に到達し、そこから戻る者」を意味し、真実の世界に到達した仏陀が、そのままこの世から消え去ることなく、すべての衆生を悟りに導くために、この世の衆生を悟りの世界へと導き続ける、そういう仏が如来と呼ばれるのです。
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仏教とは何か? 応用編 3 菩薩 (仏になる為には必須の生き方)
先にも述べましたように、阿羅漢の様に、一日も早く涅槃に入るための修行に専念するのは、基本的には自己という妄想を超克するための最も直接的な方法であると言えます。だからこそ、釈尊は最初から弟子たちにそのような方法を教えたのだと思われます。また、基本的に自己という観念が物事のあり方の本質を知らない無知の産物であるならば、その自己と対比して構想される多くの他者の存在もまた妄想に過ぎず、究極的には実体のないものであるとも言えます。したがって、こうした実体のない存在に執着することは、あらゆる執着を根絶する修行の妨げともなるという考え方もありえるのです。
しかし、私たちが自分自身の存在が実体のない妄想に過ぎないと簡単には信じられないように、他の多くの人々も同じように思っています。悟りを開いた人は、誰もが妄想の中で苦しんでいるに過ぎないと見るかもしれませんが、最終的にこの事実に気づくまでは、私たち自身の苦しみも、他の多くの人々の苦しみも、ともに否定できない現実なのです。そのような苦しみに深く浸っている人から見れば、悟りを開いた人から「あなたの苦しみは妄想の産物に過ぎない」と言われても、「余計なお世話だ!」としか思わないでしょう。
先日、ある有名な歌手が亡くなられました。彼女は、原因不明の激痛に悩まされ続けていたという事で、医者に診てもらいましたが、医師は「身体的な原因が見つからないので、気持ちの問題でしょう」といって精神的な原因を指摘しましたが、その後も、激痛は続き、結局、痛みに耐えられなくなって、彼女は自殺してしまったのでした。
身体的な原因が全くなくても、深刻なうつ病の場合、精神的な理由や妄想によって激痛が続くことがあるようです。つまり、その理由が合理的なものであれ、妄想に過ぎないものであれ、本人が苦しんでいることには変わりないのであり、妄想だからといって、その苦しみを無視してよいということには全くならないのです。
このように、人々の苦しみや悲しみは、たとえそれが実体のない妄想や執着によるものであったとしても、その事実に気づくまでは、厳然たる現実として人々を苦しめ続けるのです。殆どの人が悟りにはほど遠いことを考えると、こうして苦しんでいる人々を無視して、自分の修行だけに集中することが、社会的にも倫理的にも妥当なことなのだろうかと疑問に思う人も少なくないと思います。
さらに倫理的には、本当に自分に執着しないのであれば、自分と他人の間に重要性の差はないはずです。したがって、他人の苦しみを無視して自分の悟りだけに集中するのは、むしろ自己の概念にとらわれている証拠かもしれません。
その様な視点で、釈尊ご自身の例を考えて見ますと、釈尊は、前世において、菩薩として、数限りない利他行を重ねられ、その結果として、仏陀に成られたと、初期仏教の時代から、言い伝えられてきており、その点が仏陀に成られた釈尊と、阿羅漢にしか成れない普通の人間との違いであるという認識は当初からあったようです。だとすれば、我々自身も釈尊の様な利他行を実践する菩薩として生きれば良いではないか、という実践者のグループが登場するようになりました。
菩薩とは「仏の悟り、つまり、成仏への道を歩む人」という意味です。
阿羅漢とは異なり、菩薩は、(輪廻の世界に)存在し続ける原因を根絶しないように、他者の幸福を願うという意図的な強い執着を持ち続け、共に悟りを開いて他者の苦しみを和らげる為に、生涯を捧げて、輪廻の世界に繰り返し生まれ変わってくるのです。
言い換えれば、菩薩にとっては、自分と他人の重要性に違いはなく、したがって、悟りのための修行は、自分と他者を同時に巻き込んだものでなければならず、そうでなければ意味がないと考えるわけです。
また、自分の視点にとらわれることなく、他者の幸福を願い、(彼らの気持ちに寄り添って)その苦しみや悲しみや喜びを分かち合うことで、次第に中道の境地に達することができるのです。
阿羅漢のように、瞑想や自己観察の修行によって自己の視点をなくすことも、自己を超克する一つの道ですが、常に他者の立場に立って物事を考え、共感し続けることによって、自然に自己を忘れて、他者との一体感と自己の視点を超えた境地に近づくことも、(自己の)超克への確かな道なのです。
このように、仏教においては、自己の妄想を超克し、その先に進む道は複数あり、上記の2つの道以外にも、様々な道が示され、後に多様な仏教修行の形へと発展していったのでした。
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