先にも述べましたように、阿羅漢の様に、一日も早く涅槃に入るための修行に専念するのは、基本的には自己という妄想を超克するための最も直接的な方法であると言えます。だからこそ、釈尊は最初から弟子たちにそのような方法を教えたのだと思われます。また、基本的に自己という観念が物事のあり方の本質を知らない無知の産物であるならば、その自己と対比して構想される多くの他者の存在もまた妄想に過ぎず、究極的には実体のないものであるとも言えます。したがって、こうした実体のない存在に執着することは、あらゆる執着を根絶する修行の妨げともなるという考え方もありえるのです。
しかし、私たちが自分自身の存在が実体のない妄想に過ぎないと簡単には信じられないように、他の多くの人々も同じように思っています。悟りを開いた人は、誰もが妄想の中で苦しんでいるに過ぎないと見るかもしれませんが、最終的にこの事実に気づくまでは、私たち自身の苦しみも、他の多くの人々の苦しみも、ともに否定できない現実なのです。そのような苦しみに深く浸っている人から見れば、悟りを開いた人から「あなたの苦しみは妄想の産物に過ぎない」と言われても、、「余計なお世話だ!」としか思わないでしょう。
先日、ある有名な歌手が亡くなられました。彼女は、原因不明の激痛に悩まされ続けていたという事で、医者に診てもらいましたが、医師は「身体的な原因が見つからないので、気持ちの問題でしょう」といって精神的な原因を指摘しましたが、その後も、激痛は続き、結局、痛みに耐えられなくなって、彼女は自殺してしまったのでした。
身体的な原因が全くなくても、深刻なうつ病の場合、精神的な理由や妄想によって激痛が続くことがあるようです。つまり、その理由が合理的なものであれ、妄想に過ぎないものであれ、本人が苦しんでいることには変わりないのであり、妄想だからといって、その苦しみを無視してよいということには全くならないのです。
このように、人々の苦しみや悲しみは、たとえそれが実体のない妄想や執着によるものであったとしても、その事実に気づくまでは、厳然たる現実として人々を苦しめ続けるのです。殆どの人が悟りにはほど遠いことを考えると、こうして苦しんでいる人々を無視して、自分の修行だけに集中することが、社会的にも倫理的にも妥当なことなのだろうかと疑問に思う人も少なくないと思います。
さらに倫理的には、本当に自分に執着しないのであれば、自分と他人の間に重要性の差はないはずです。したがって、他人の苦しみを無視して自分の悟りだけに集中するのは、むしろ自己の概念にとらわれている証拠かもしれません。
その様な視点で、釈尊ご自身の例を考えて見ますと、釈尊は、前世において、菩薩として、数限りない利他行を重ねられ、その結果として、仏陀に成られたと、初期仏教の時代から、言い伝えられてきており、その点が仏陀に成られた釈尊と、阿羅漢にしか成れない普通の人間との違いであるという認識は当初からあったようです。だとすれば、我々自身も釈尊の様な利他行を実践する菩薩として生きれば良いではないか、という実践者のグループが登場するようになりました。
菩薩とは「仏の悟り、つまり、成仏への道を歩む人」という意味です。
阿羅漢とは異なり、菩薩は、(輪廻の世界に)存在し続ける原因を根絶しないように、他者の幸福を願うという意図的な強い執着を持ち続け、共に悟りを開いて他者の苦しみを和らげる為に、生涯を捧げて、輪廻の世界に繰り返し生まれ変わってくるのです。
言い換えれば、菩薩にとっては、自分と他人の重要性に違いはなく、したがって、悟りのための修行は、自分と他者を同時に巻き込んだものでなければならず、そうでなければ意味がないと考えるわけです。
また、自分の視点にとらわれることなく、他者の幸福を願い、(彼らの気持ちに寄り添って)その苦しみや悲しみや喜びを分かち合うことで、次第に中道の境地に達することができるのです。
阿羅漢のように、瞑想や自己観察の修行によって自己の視点をなくすことも、自己を超克する一つの道ですが、常に他者の立場に立って物事を考え、共感し続けることによって、自然に自己を忘れて、他者との一体感と自己の視点を超えた境地に近づくことも、(自己の)超克への確かな道なのです。
このように、仏教においては、自己の妄想を超克し、その先に進む道は複数あり、上記の2つの道以外にも、様々な道が示され、後に多様な仏教修行の形へと発展していったのでした。
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