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仏教とは何か? 応用編 5-2 「空」について-2

 
 では、「空」とは一体どういうことなのか、もう少し詳しく見てみましょう。先ほどの例では、椅子や人間など様々な要素が複雑に絡み合っていました。これらの組み合わせが概念を形成することは理解できますが、それでも根本的な要素そのものは存在すると考える人もいるかもしれません。
 それを「水」の例で考えてみましょう。実体論の視点を持つ人は、水という性質や本質を持った何かが存在すると考えます。しかし、「水」はH2Oと呼ばれる水素原子2個と酸素原子1個からなる分子で構成されていることは良く知られています。つまり、「水」という不変の実体があるわけではなく、2個の水素原子と1個の酸素原子の関係性が、位置度から99℃までの温度という条件に依存した現れに過ぎないのです。私たち人間は、このような状態を 「水」と呼んでいます。つまり、本来、「水」とは、特定の温度条件下における水素原子と酸素原子との特定の関係性(原因)によって発現する一つの形態に過ぎず、その関係性によって発現する形態以外に「水」という実体があるわけではないのです。
 その証拠に、温度が0℃以下になれば、たちまち「氷の粒子」になり、100℃以上になれば水蒸気になって見えなくなります。したがって、水素原子と酸素原子の特定の関係性(原因)の結果として「水」が現れるのは、位置度から99℃までの特定の条件下に限られる訳で、条件が変われば、同じ原因であっても、その現れ方は変わるのです。
 このように、この世界に存在するすべてのものは、原因と条件の関係性に基づいて、その姿を現しているだけであり、それとは別に、特定の固定的な実体や本質など無いが故に、「空」である、とされる訳です。
 では、水素原子や酸素原子はそれ自体の実体があるように思えますが、それらも結局は、陽子、中性子、電子といったそ粒子の組み合わせなのです。そして、更に、それらのそ粒子も、クォークの組み合わせであるとされています。(ではクォークこそが、究極の元素なのかと思われますが)クォークとは、いくつかの振動体の関係性を通してその性質を現すと言われているもので、しかも、これらの振動体はもはや物理的な物体ではなく、エネルギーの集合体のようなものであり、それら(エネルギーの集合体)の相互関係を通じてさまざまな性質が現れるとされているものです。この「関係性こそが、存在の仕方を決めている」という事実は、まさに現代物理学の最先端の知見と、古来から仏教が説く「空」というものの見方が、完全に一致している事を示しています。
 抽象的な話が続きましたので、今度は、「空」の概念を日常生活に当てはめてみましょう。
 Aという人物を考えてみましょう。
 AはBという女性と交際しており、AはBのボーイフレンドであり、BはAのガールフレンドだとします。やがて、二人の関係性が悪化するにつれ、BはAと別れることを決めました。ただ、そのようなBの決断にもかかわらず、Aは執拗にBを追いかけます。Bにとって、かつては「最愛のボーイフレンド」だった A は、今やBから見れば恐ろしい「ストーカー」であり、ほとんど「犯罪者」です。それでも、A は、家庭では年老いた両親の面倒を見る「孝行息子」で、会社の社長からは「優秀な社員」で「従順な部下」だと思われていますが、部下からは「最悪の上司」であると思われていて、親しい同僚からは「仲間」だと思われていますが、仲の悪いライバルからは「最大の敵」であると思われています。
 では、どれが本当のAなのでしょうか?実は、全部がAなのです。つまり、他者との関係性によって、同じAが、「犯罪者」「最も親孝行な息子」「優秀な従業員」「従順な部下」「最悪の上司」「仲間」「最大の敵」になるのです。
 A自身は本来「空」であり、他者との関係によってその意味づけが変わるのです。
 意味を変えたければ、関係性を変えればいいのであり、逆に、関係性を変えれば意味も変わるのです。
 もし、Aが本質的に「悪人」だとしたら、彼は、誰にとっても「悪人」であり、永遠にそうであるはずです。彼が最も素晴らしい人間であるはずもありません。しかし現実には、彼は人によって全く異なる側面を見せ、それに応じて、意味も変わるのです。
 つまり、物事や人には、固定的な本質や性質はなく、すべては関係性や条件によって成り立っており、その関係性に意味を持たせるのは、全て私たち次第、なのです。
 この「空」の視点を、より現実的に考えるには、実際の人間関係に当て嵌めて見れば良いと思います。
 日々の生活の中で、私たちは様々な人間関係に遭遇します。良い人間関係もあれば、悪い人間関係もあり、敵対的な人間関係もあれば、友好的な人間関係もあります。しかし、本質的には、全ての人や出来事は「空」であり、本来は特定の意味を持っている訳ではありません。誰が良い人なのか、あるいは悪い人なのか。敵か味方か。悪い出来事か良い出来事かは
 彼らや、それら出来事との関係性に基づいて、どのように見えるかに過ぎません。本来、私達は、これらの関係性にどんな意味を持たせるかは、全くの自由なのです。
 例えば、誰かが私達の悪口を言ったり、私達の邪魔をしようとしたりすると、多くの人はその人に 「敵」というレッテルを貼ると思います。ただ、ひとたびそのようなレッテルを貼ってしまうと、相手の行動全てがネガティブな敵対行為に思えて来ます。私達は相手を憎み始めますが、いくら憎んでも相手には全く影響しません。それゆえに、憎しみは増幅するばかりです。このように、誰かを恣意的に「敵」と決めつけることで、私達自身が大きな苦しみを味わうことになるのです。正に独り相撲です。
 しかし、「敵」という、レッテルを貼る代わりに、「あの人のお陰で、自分の欠点を認識し、より慎重に行動できるようになった。ある意味、恩人なのだ。批判されれば、それは私達の成長に役立つし、悪口を言われれば、他人からどう見られているかを理解するのに役立ち、さらに成長することができる。」と考えることもできます。
 このように、他人の行動に対する意味付け次第で、それをどのようにでも解釈することができるのです。不快なことがあれば、そのような不快な意味づけをしなければ良いだけのことです。
 ただし、これは純粋に理論上でのお話です。人間は必ずしも理性的な存在ではありません。「空」という、レンズを通して、物事を見れば、そうなるというお話ですが、現実には、いきなりそんな風に視点を完全に変えることは難しい場合が殆どだと思います。
 人間関係はさまざまな原因や条件の上に成り立っているので、先ずは何故ネガティブな方向に進んでしまったのかを理解することが大切かもしれません。その為には、相手との忌憚のないコミュニケーションが欠かせないと思われます。そうして少しずつお互いの見方が変わっていけば、関係が改善されていくかもしれません。
 いずれにせよ、人間は本来、完全に善人でも悪人でもなく、さまざまな条件や人間関係によって、模範的であったり、欠点があったりするものです。誰もが、ある時点では親切に振る舞うこともあれば、悪意を持って振る舞うこともあり、立派になることもあれば、軽蔑されることもあるのだと思います。
 一瞬一瞬の選択と判断ですべてが変わることもあります。かつては誰からも賞賛されていた人が、ある日犯罪者になるかもしれないし、その逆もあります。悪名高い、犯罪者が、子犬を救うために命を犠牲にするかもしれないし、かつてのアショカ王のように、人々を恐怖に陥れた暴君が、後に仏教の世界的普及に大きく貢献したりするのです。基本的に、人や物事は「無常」「無我」「空」であり、不変の信頼や思い込みなど当てにならないものです。
 つまり「この人は立派だ」とか「あの人は無価値だ」というような言葉は、1日程度しか通用せず、明日はどうなるかは誰にも分かりません。
 否定的にとらえれば、誰も当てにならないとも言えますが、肯定的にとらえれば、誰でも常に変われる可能性がある、ということを意味しているのだと思います。
 上記の長くて複雑なお話をまとめますと、前項でも述べました様に、「空」という視点は、あらゆる固定的な信念、思い込み、執着から、自分を解放するものの見方である、と言えるのではないでしょうか。
 
 
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